だから言ったのに
先日書いたジャップ・ロードの続きである。
地元住民の1人は「彼ら(日系人団体)は長年われわれにうるさく名称変更を迫った。こんなことで勝ち組はいないことを学ぶべきだ」と、
名称選択で日系人団体への当てこすりの感情があったことを示唆している。
いいこと言うじゃないかアメリカ人。
名前は名前だ。言葉は言葉だ。大切なのは音じゃなくて意味なんだ。
なぜこんな簡単なことがわからない奴がいるんだ?
呆れるのは日系人団体だ。
せっかく日本人をたたえて名前を付けたのに、言い方が悪いから誉めなおせとは何事か。
恥を知れ。
ちょっと誉めたらつけあがるから呆れられたんだよ。
馬鹿な真似するから賞賛を取り下げられちゃったんだよ。
情けない。
当初は「マユミ通り」の案も浮上したものの、地元住民から「発音しにくい」との声が上がり、
以前地元で営業していた有名なナマズ料理店の名前を使うことに決めた。
何がマユミ通りだ。
そんなのアメリカ人が反対するのは当たり前だろう。
近所の道の名前言うために発音練習なんかやってられるわけないんだから。
近所の地名がドイツ語のRの発音の名前になるなんて言ったら俺だって反対する。
長年アメリカに住んでて、そんなこともわからないのか?
この記事もひどいものだ。
どこからどうみても悪いのは日系人側じゃないか。
当てこすりじゃなくて、何が大切かを見ろって教えてくれてるんだよ。
ワガママは通りませんって示してくれてるんだよ。
呆れながらも親切に接してくれてるんだよ。
恥の上塗りになるようなことを言わないでくれよ。
気付けよ。
気付いてくれよ。
いくらなんでも情けなさ過ぎやしないか?
戦争絶滅受合法案
60年前、世界に先駆けて、画期的なものとして生まれた日本国憲法9条。
第九条 戦争放棄、軍備及び交戦権の否認
- 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
- 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
平和を求める最高の法とされる。
日本人が日本国憲法に誇りを持つのはよいことだ。
しかし9条には、拡大解釈の問題が常に付きまとう。
文字通り、素直に読んでいたのでは現状に対応できなくなってしまっているからだ。
状況が変わったのである。
(諸君とて、まさか現状が自衛隊を解散できる状況だとは思うまい?)
そもそも9条は、終戦間もない日本を想定して作られた。
極悪非道の戦争犯罪国家、敗戦国、有色人種の二流国家である。
誰も、打ちのめされた日本人自身ですらも、日本が世界平和のために責任ある立場で軍事力を奮うなどとは考えなかった。
それに当時、そんな国は世界のどこにも存在しなかった。
アメリカがそろそろそんな事を言いはじめてはいたけれど、同じ事を日本ができるなんて考えるのは普通ではなかった。
焼き尽くされた二流国が、世界最強国と同じ正義の味方になるなど、夢の世界に属する論議だったのだ。
状況は思いのほか早く変わった。
9条は日本の誇りであると同時に、足枷となりはじめた。
あまりにも強く9条を誇りにしていたため、変更を加えることは躊躇われた。
戦争の恐怖が強く染み付いていたため、9条に変更を加えることは恐れられた。
そのため、96条の存在は無視された。
第九十六条 憲法改正の手続
60年。そのまま時は流れた。
9条は現代の付喪神となりつつある。
いまや9条は超常的な立場を得つつあるのだ。
「憲法9条は変えてはならない。なぜかって?9条は最高だからだよ!」というわけだ。
しかし、日本国憲法第9条を超える法案が存在するのをご存知だろうか。
第二次世界大戦の反省から生まれた憲法9条を超える法案は、第一次世界大戦の反省から生まれた。
日本に紹介されたのは1929年と実はいささか古い。
その名も戦争絶滅受合法案(せんそうぜつめつうけあいほうあん)。
戦争を絶滅させてみせると請合う法案である。
少々ふざけた名前の法案だが、内容はもっとふざけている。
しかし効果のほどが絶大であることは見れば判っていただけるだろう。
戦争絶滅受合法案
戦争行為の開始後又は宣戦布告の効力の生じたる後、十時間以内に次の処置をとるべきこと。即ち下の各項に該当する者を最下級の兵卒として召集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従わしむべし。
上記の有資格者は、戦争継続中、兵卒として召集さるべきものにして、本人の年齢、健康状態等を斟酌すべからず。但し健康状態に就ては召集後軍医官の検査を受けしむべし。
- 国家の元首。但し君主たると大統領たるとを問わず、尤も男子たること。
- 国家の元首の男性の親族にして十六歳に達せる者。
- 総理大臣、及び各国務大臣、並びに次官。
- 国民によって選出されたる立法部の男性の代議士。但し戦争に反対の投票を為したる者は之を除く。
- キリスト教又は他の寺院の僧正、管長、その他の高僧にして公然戦争に反対せざりし者。
以上に加えて、上記の有資格者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦又は使役婦として召集し、最も砲火に接近したる野戦病院に勤務せしむべし。
戦争絶滅受合法案の優れている点は、ほとんど何も禁止していないことにある。
戦争絶滅受合法案は、戦争を禁止していないのだ。
それはただ、戦争を起こらなくする。
戦争を起こす人の心を叩くのだ。
ただし戦争絶滅受合法案はいささか内容が古いので、実際に使用するには修正が必要であろう。
そこで、以下のようなものを考えてみた。
日本国憲法9条改正案(新・戦争絶滅受合法案)
日本国の保有する戦闘力が、他国からの侵略によらず、他国との戦争又は戦闘行為に及ぶ場合、日本国政府は、ただちに次の処置を行わねばならない。
- 戦闘行為の開始後又は宣戦布告の効力が生じてから十時間以内に、下の各項に該当する者を最下級の兵士として召集し、できるだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従事させなければならない。
上記の資格に該当する者は、最下級の兵士として招集され、戦闘終結まで昇進はなく、任を解かれることはない。又、本人の年齢、性別、健康状態、精神状態、その他のいかなる理由も斟酌されない。
- 国家の元首。
- 国家の元首の二親等以内の親族で、成人年齢に達する者。
- 総理大臣、各国務大臣、並びに次官。
- 国会議員。但し、戦闘又は戦争に反対の投票を行った者は除く。
- 教育者、僧侶、神父、その他民衆を指導する立場にある者で、公式に戦闘又は戦争に反対を表明しなかった者。
- 戦闘行為の開始後又は宣戦布告の効力が生じてから十時間以内に、下の各項に該当する者を召集し、できるだけ早くこれを最も砲火に近接した野戦病院に送り、勤務させなければならない。
- 医師又は医療行為を生業とする者で、公式に戦闘又は戦争に反対を表明しなかった者。
- 報道を生業とする者で、公式に戦闘又は戦争に反対を表明しなかった者。
- 上記1項・2項に該当する者で公職にある者は、召集と同時にその任を解かれるものとする。国会議員の欠員は、召集の日から14日以内に総選挙を行い補充しなければならない。又、その選挙の日から14日以内に、国会を召集しなければならない。
外政干渉
常任理事国入り、憲法9条改正が条件(毎日新聞)
まるごと引用して怒られてもつまらないので、リンク先に跳んで読んでいただきたい。
読めば判る通り、内容は条件を突きつけられたわけでもなんでもない。
朝日新聞のつけたこの見出しは無茶苦茶である。まるで内容とは違っている。
毎度の事ながら、煽ればいいというものではないだろう。
それはさておき、アーミテージ米国務副長官の言葉だ。
それに対する反応。
面白いね。実に面白い。
別に、アーミテージは日本にどうこうしろと言っているわけではないだろう。
「保安官の助手になってくれると嬉しいんだけど、あいつは非暴力主義だからやりづらいなあ。」
「でも、暴力無しじゃあ、外に出たときあんまし頼りにならないんだよな。」
と言っているだけで、別に
「非暴力主義をやめないと絶交だぞ。」とか、
「非暴力主義なんてやめちまえよ。」と言っている訳ではない。
期待を示して内政干渉になるのなら、外交なんて成り立たないだろう。
それに対しての反応が何とも言えず面白い。
「子分になれっていうのか?それは俺に喧嘩売ってるんだな?」
これはどうか。
「俺たちのことは俺たちで決めるから別にいいの。」
ムッとしながら言う感じかな。
「そうか?長い目で見れば、お前にも損はないはずだぞ。」
優等生の回答。根拠があればいいんだけど。
「方針は変更しない。絶対に変更しない。」
あ、そう。
「俺に方針変更をさせようなんて言語道断だ。」
…。
憲法改正について、やたらと過剰反応する党は、どうも好きになれない。
憲法に変更を加えることを「改悪」と呼ぶのが最もいただけない。
今の憲法はあまりにも完璧だから、変更はどうやっても改悪になると言いたいのだろう。
もしくは自分たちの能力では、絶対に今以上のものは作れないという意味かもしれない。
それはそれで、自分をよくわかっているということか。
一言居士というやつだな。状況の変化に対応できない人間が言い訳に使う論法だ。
日本国憲法を語るなら、日本国憲法をちゃんと読んでいるのは最低条件だ。
憲法96条 「改正」
内容を答えられない人は、憲法改正について論じる資格なしと言われても仕方ないだろう。
国民投票を行い、過半数が賛成しなければ憲法に変更は加えられない。
改悪はできないようになっているのだ。
日本国憲法の最大の特徴は、9条にあることは間違いない。
しかしそれを日本の宝と呼ぶのはどうか。
宝として守り、守ることだけが目的となって変更できないのでは、状況が変わったときに困るのではないか。
状況が変わっても、変えてはならない守るべきもの。
日本国憲法96条こそ、日本の宝なのである。
諸君は彼ら上記5名全員が、憲法96条の内容をきちんと答えられると思うかな?
どうも怪しいことを言っているのがいないか?
■追記
予想通り、軽くあしらわれたみたい。
期待されるのと強要されるのの区別もできんのか。
葦
人間は自然界において、弱い葦のような存在でしかない。
しかしそれは、考える葦である。
けだし名言である。
しかしそれでは、考えない人間は何であるのか。
葦か?
葦であれば、小動物を育みもしよう。
考えない人間が集まったところで暑苦しいだけだ。
何かの価値を見出すとすれば、改心して考えるようになるかもしれないということか。
そういえば選挙権なんてものを持ってたりもするな。
選挙のときの記事に批判を受けたとき、このように書かれた。
- 考えがないなら投票するなと言っている。
- しかし、投票しない人は何も言う権利がないと言っている。
しかしまあ、実際私の言いたいことはさほど大きく違わない。
考えてないのにテレビに踊らされて投票されても迷惑だ。
投票はテレビの感想を述べる場所ではないのだから、きちんと有権者の声で話していただきたい。
考えずに物を言われてもろくな会話になるはずもない。
親しくもない人と、そんな会話をするのは勘弁だ。
それにしても私の軽い挑発にはいい反応を返してくれるのだから、プライドはあるのだろう。
犬笛に呼ばれて走り回る犬のような扱いをされて、平気でいられるのは実に不思議だ。
人は弱い。
確かに葦のごときものである。
それでも、精神ぐらいは強くありたいものではないか。
ジャップ
文章を書く前に、タイトルを考える。
すると意識しなくても、タイトルに合った内容の文章を書いている。
無意識のうちに、自分に制約を課しているのだろう。
知能指数の話?
気が向いたら書くだろうさ。
今日は悲しいニュースを聞いた。その話を書こう。
テキサス州の「ジャップ・ロード」、差別的として改称へ(ロイター通信の記事)
アメリカのテキサス州には、ジャップ・ロードと呼ばれる道がある。
ちょうど100年程前に、テキサスに移住し、テキサス米作の礎を築いた西原清東という日本人を称えるために名付けられた。
日本人を称えるために名付けられたのだ。
しかしその名誉は奪われようとしている。
理由は、ジャップという言葉が差別用語だからだという。
差別用語とは何ぞや?
人間の属性を表す単語に、差別的な意味が込められたものである。
差別的な意味を込めるのは、その言葉を使う人間の差別意識である。
差別意識のない場所に、差別用語などというものは存在しない。
それは単語そのものの属性ではないのだ。
諸君の多くは「オージー」という言葉を使うだろう。
米国産の牛肉が輸入再開されるまで、輸入牛肉のほとんどはオージービーフだ。
オージーとは、もともとオーストラリア人の蔑称である。
もし差別用語が単語そのものに差別の属性を含むのであれば、オージーという言葉を使う人間はすべて差別主義者だ。
しかしもちろん、諸君は差別主義者などではあるまい。
オーストラリア人たちは、差別と戦い、差別に打ち勝つことで、オージーという言葉を無害化した。
自らを呼ぶのにオージーという言葉を使うことすらある。
日本人にとっても、オージーという言葉はもはや蔑称ではないのは諸君も知る通りだ。
たとえ元が差別用語であっても、使う側の差別意識をなくしてしまえば差別用語とはならないことがわかる。
これは差別用語に打ち勝つ唯一の方法だ。
そして日本人も、ジャップという言葉に打ち勝ちつつあると私は思っていた。
終戦直後の日本人に、ジャップと呼ばれて動揺しない人間は多くなかっただろう。
今ならどうか。
日本人の多くが、その程度では揺るがないだけの誇りを持っていると私は思う。
しかし、アメリカの日系人たちに周知されるほどではなかったのだろう。
残念なことだ。
私は、差別用語に打ち勝つ唯一の方法と書いた。
言い換えによる言葉狩りは、解決にはならないという意味だ。
差別意識が差別用語を生むのであるから、たとえどのような語に置き換えても意味はないのだ。
ジャップという言葉を消したところで、ニップと呼ばれるだけのことである。
ジャパニーズと呼ぶことを強制すれば、ジャパニーズという単語が差別用語になってしまうだろう。
差別があるという事実を隠しても、事実はなくならない。
差別自体を過去の領域に送り込む以外に方法はないのだ。
オーストラリア人にはできたのだ。
彼らを称えるべし。
しかし、我々にもできないはずがあるだろうか?
■おまけ
対馬は韓国領土(朝鮮日報)
朝鮮日報は日本でいえば東スポみたいな新聞なんだろうな。
しかし本当に、どこでこんな馬鹿みつけてくるんだか。
朝鮮は日本の江戸期、「倭館」という機関を置いて、日本の対馬藩とだけ、厳重な監視の元に貿易を行っていた。
対馬を倭と呼んだのは朝鮮の側であるが、彼らは自国の歴史も知らないのであろうか。
10年ほど前、日本の文部省が奇妙なことをした。
「国際化社会に向けて、日本史の授業を減らし世界史の授業を増やす」というのだ。
外国人が日本人に会って、アメリカ史を尋ねるか日本史を尋ねるか。
少し考えれば判りそうなものである。
「世界に行くには世界史だろー」という無思考の産物。
かの国にも、似たような問題があるのだろうか?
IQ120 前半
初日に書いた通り、私は「当然」という言葉をまず疑う。
これは恩師の言葉に大きく影響されている。
「林檎が木から離れたら、落ちるのは当然だ。なぜ当然なのか。それを疑うことから知恵が生まれる。」
ああ、ニュートンが見たのは別の物だという異説は教えてくれなくてもよろしい。
思考過程を一部すっ跳ばして、結論までつないでしまうのが「当然」という言葉の役割だ。
上手に使えば、まわりくどい解説を、簡潔にまとめることができる。
悪用すれば思考停止を要求し、知られたくないことを隠すことができる。
そこに突っ込まれたら、「常識ダロ!」と逃げることができるわけだ。
ここで私が書く文章は、「当然」で済まされている部分を、当然で済まさないことが目的だ。
思考停止を拒否するのである。
政治ネタを書くと、感情的でステレオタイプな思考停止の要求が多く寄せられる。
説明すると見せかけて肝心のところだけ隠してみたり、先述の「常識ダロ!」を使ったり。
そんなに必死になるほどの何を隠しているのかは知らないが、時々暴き出して、からかってみたくなるのだ。
しかし「当然」を常用するだけあって、昨日紹介したような素晴らしい考察を見せてくれる人は少ない。
もう、飽きた。別の話を書こう。
当然のことをわざわざ考えるというのは、回答よりも思考過程を重視するということである。
わざわざ回答のみを省くこともある。
算数ドリルの答えを写して宿題を終わらせたつもりになるような相手と、算数の話はできないのだ。
今日も、ひとつの「当然」について考えてみたいと思う。
お題は、このblogのタイトルにも使っているIQ(知能指数)である。
知能指数が高ければ、頭が良いのは当然なのか?である。
まあ待て、感情論は不要だ。あなたの実体験を求めているわけでもない。
お題を決めたところで余談だが、なぜかgoogleから「IQ120」というキーワードで検索してきている人がいる。
いったい何を知りたかったのだろう。疑問は尽きない。
本題に戻って、知能指数である。
[知能指数 = 被験者の精神年齢 ÷ 被験者の実年齢 × 100] これが知能指数の定義とされる。
60歳で知能指数が200であれば、精神年齢は120歳である。おやおや。
これは何を意味するのか。
知能指数の定義で用いられる「精神年齢」とは、字義通りの精神年齢という意味ではないということだ。
そもそも本当にこの数式で算出したのであれば、その数値は知能指数ではなく、精神年齢指数と呼ぶべきだろう。
この疑問に対しては、「精神年齢」=「知能年齢」である、という回答が用意されている。
名詞を言い換えただけで満足はできない。
知能年齢とは何ぞや?IQテストの成績のことだ。
なるほど知能年齢の測定法はわかった。では、知能年齢が意味するものは何か?
はっきりとした解説は見当たらない。
知能指数と言うからには、知能の指数である。
知能という言葉は具体的ではないが、それについては後で定義をはっきりさせよう。
今はまだ曖昧なままにしておく。とりあえず、知能と呼ばれる何かだ。
[知能指数 = 被験者の知能 ÷ 平均知能 × 100] これがあるべき知能指数である。
なぜ年齢などという要素が入り込んでいるのだろう。
これは考えても答えは出ないので、種明かしをしてしまうことにする。
知能指数を提唱したシュテルンという学者は、知能と年齢は比例すると考えていたのだ。
もちろん間違いだが、100年近くも昔の話であるから、シュテルンを責めることはできない。
知能と年齢が比例すると考えると、[知能 = α × 年齢]という式が成り立つ。
定数αを、仮に知能係数と名付けよう。
[被験者の知能 = 被験者の知能係数 × 被験者の年齢]である。
知能年齢とはIQテストの成績、つまり現時点での実力であるから、
[知能年齢 = 知能係数 × 年齢]となる。
すると、[被験者の知能指数 = (被験者の知能係数 × 被験者の年齢) ÷ (被験者の年齢) × 100]
つまり、[被験者の知能指数 = 被験者の知能係数 × 100]となる。
知能係数は知能を年齢で割ったものだから、知能指数を使えば、年齢に関係なく被験者の知能の高低の傾向がわかる。
少なくとも、シュテルンはそう考えた。
残念ながら人間は、歳を重ねるに比例して、いくらでも知能が上がるわけではない。
二十歳過ぎればただの人という言葉があるが、成人してからの人間は、知能よりも経験・知識による成長が大きい。
シュテルンの提唱した知能指数は、年齢が上がるにつれて知能指数が下がるという結果を出す。
20歳の人と60歳の人が同等の知能だとすると、知能指数は3倍も違ってしまうのだ。
結局、シュテルンの知能指数は、同じ年代の人を比較する以外、何の役にも立たない数値だった。
現在広く行われている知能試験は、この知能指数の考え方に、若干の修正を加えたものである。
知能指数は、同年代の人を比較する以外に役に立たない。
それならば、同年代の人を比較すればいいという発想である。
年代別に被験者を分け、それぞれに平均知能係数を与える方法で、なるべく正確な値を出そうとする。
知能指数は指数であるから、平均は常に100になるように調整される。
100を基準とした高低の差にこそ意味がある数値なのだ。
平均知能指数が100を超えるのは、単に試験が簡単であったとか、基準が甘かったということでしかない。
もしくは平均をとる基準の母体と、被験者の母体が違うということだ。
つまり世界の平均が100になるよう調整した試験で、日本の被験者の平均が100を超えた、という状況である。
時間を過ぎてしまった。
このblogの主題とした内容でもあり、少々力を入れすぎたようだ。
まだ知能の定義も書いていない。この調子では、最後まで書くにはかなりの時間がかかりそうだ。
よって、ここまでを前半とする。
叶わぬ願い
トラックバックを頂いている。
実は先日からいくつか頂いてはいたのだが、返信不要と判断していた。
しかし今回は名指しで話し掛けられているようだ。
さて、どうしたものか。
2つのblogから、連動した形でトラックバックを頂いている。
まずは見てもらうのがわかりやすいだろう。
http://d.hatena.ne.jp/mill743/20040713
mill743氏から、昨日の文章に批判を頂いた。
ありがたいことだ。
ひとつ忠告するなら、批判を書く前に「結局よくわからない」は如何なものか。
謙遜であれば内容の説得力を弱めることになるし、事実であれば理解してから書くほうが良い。
これがスタンスだと言われれば、それまでではあるけれども。
内容については敢えて触れまい。
mill743氏はトラックバックを下さりはしたが、私の意見を求めるとは書いておられない。
ただ私に見せたかったのであろう。
ご本人が望むとあれば書かないでもないが、私のいない間に結論も出ているようであるし、必要ないものと考える。
さて、この批判に対し、フォローを入れてくれた人がいる。
http://d.hatena.ne.jp/irose/20040712
色瀬氏からは、前にもトラックバックを頂いている。
氏は私の非常にもってまわった言い回しばかりの文章を、簡潔にまとめてくれている。
特に1. の内容に関しては、私の考えていなかった部分だ。
私の書いた文章の視点から、さらに広い視野で物事を見ている。
特筆すべきは、氏と私の意見は同じではないということだ。
氏は、自分の意見というもっとも外しがたいバイアスを排し、私の文章を理解している。
同意しているのではない。理解しているのだ。
さらに、自分とは違う視点、つまり私の視点から物事を見て、私の気付かなかった事柄まで書き出してある。
それだけでも、氏の能力の高さを伺わせるに十分であろう。
先日トラックバックを頂いたときにも、広い視野を簡潔にまとめた文章を拝見した。
別に、比較的とはいえ好意的に評して頂いたから誉めているわけではない。
初日の文章を書いたときから、ここで馴れ合いを演じるつもりは毛頭ないのだ。
能力が高いと思ったから、そう書いた。そうでなければ触れないだけのことだ。
氏は、誰にでもその知恵を与えることを惜しまないようである。
誰にでも、安心して薦める事ができる文章といえよう。
まさに私の文章とは対照的だ。
それにしても、氏の枷を外した文章を読んでみたいものである。
しかしそれは叶わぬ願いと終わりそうである。
■追記 IQ120
IQ(知能指数)は、 知能指数 = 精神年齢 ÷ 実年齢 × 100 と定義される。
30歳で知能指数300であれば、精神年齢は90歳である。はてさて。